信用と信頼
生きていく上で、ほとんど必要ないうえに不毛なものが、言葉遊びだ。言葉じりをとらえ、物を分かったように話し合うことほど、意味のないことはない。ただ、非常に面白いのだから、始末に困る。最近の公的機関の動向を見ていて、言葉遊びをしてみたくなった。政府は、どう信じれば良いのだろう。
信用と信頼という、非常に良く似た言葉があるが、これの差はどういった物なのだろうか。辞書では、お互いの言葉がそれぞれの欄に書かれていて、差がほとんど感じられない。それでは文字を見て、感じるところを書いてみよう。文字だけを見ると、信用は信じて「用いる」、信頼は信じて「頼る」、ということだ。用いるよりも頼るほうが、重く見ているように感じる。信頼は「全面的に信用している」と、信用を含んでいると解釈してみよう。
さて、政府に対するわれわれの態度は、どのようなものであるべきだろうか。それは、信じるところは信じるが、目を離してはならないと思う。全面的に信じて全てを任せっきり、ではいけない。ということは、政府は、信用するべき物だ。
最近の警察の不祥事などを見ると、非常に不安になってくるが、基本的には、われわれの利益のために働いてくれていると思って、信用するしかない。それにしても、国民が政府に対して、これくらいの不信感というのは、どこの国でも当たり前なのだろうか?まあ、北朝鮮のように、盲目的に信じるのも嘘のようだが、不信を感じるのが正常だなんていうのは、なんだか変な気がする。
ゼミ
今までの学生生活では、夏が終わった後、必ず「学校が始まったぞ」というシグナルがあった。学校に行き、久しぶりの友達や先生に会って、授業が始まる。鉛筆の感触に戸惑い、久しぶりに書いた文字は、相変わらず汚い、と思う。ああ、学校が始まるのかと、ため息をつく。このような儀式を経た後、新学期にむかう体勢ができていた。
ところが、研究室に配属された今年は違っていた。まず、夏休みは遊びほうけることができなかった。どこかに感じる院試に対するプレッシャーで、心の晴れる時はなかった。そして学校では、研究室はスタートしているのに、授業は始まっていない。研究室には顔を出す程度でなにをするわけでもない。そんなわけで、学校が始まっているのか、まだ休みなのか、体が理解していない。
そんな中、研究室でのゼミが、今日始まってしまった。体というのは正直なもので、まだまだ休みでいたいらしい。資料が前にあっても、体が準備をすることを拒む。理性で多少押さえつけても、ほとんどできない。事前の準備が足りないので、今日の内容の理解ができない。
今日は、助教授が資料の説明をした。来週は、僕たちが発表をするらしい。資料も既に渡されている。そろそろ、勉強で忙しくなる予感がする。できるだけ真剣に取り組みたいのではあるが、どれだけ時間がかかるのだろう。新しい環境というのは、戸惑いがたくさんある。「夏休み」ということに、こんなに戸惑うのは初めてだ。
かぼちゃ
8月は大学院入試の準備で心の余裕が無く、全く自炊をしなかった。もっぱらコンビニ弁当で済ませていたので、そろそろ人の手で作った食事が食べたかった。ということで、今月は自炊を心がけている。新しい食材にもチャレンジしてみようと、かぼちゃをはじめて買った。
かぼちゃの切り方も知らなかったのだから、調理法など知るはずも無い。天ぷらがおいしいと聞くが、鍋も油も無い。油との相性が良いということだろうかと、野菜炒めに入れてみたが、なんだか違う。とりあえず、冷凍保存をしているので、当分調理方法を悩むことができるのだが、今ある食材を使い切らなければならない。良い利用方法はないものだろうか。
その昔は、ごぼうの切り方さえ分からなかった。それが、最近ではささがきのまねごとくらいならできる。かぼちゃについても、おそらく同じように、使いこなせるようになるのだろう。その次のターゲットは、「かぶ」か「アスパラガス」か。とにかく、レパートリーをどんどん広げていこう。
ダイエー優勝
高校の先輩が活躍しているという縁で応援しているダイエーが、リーグ優勝を果たした。ここ数年、あとちょっとでつまずいていた。その度に「やっぱりか」と思い、今年も「どうせ最後でこけるだろう」とも思っていた。今回も、最後の最後で裏切るだろうと思っていたのに、結局は優勝した。いや、めでたいめでたい。
ところで、優勝まであと1人、という時にバッターボックスにいる人の気持ちはどんなもんなんだろう。空振りしてやるか、なんてことを考えていたりするんだろうか。あと1人という時に打つというのは、球場全体を敵に回すという事になるのだから、なかなか打ちづらいものだと思うのだが。そんな事を考えてか考えなくてかは知らないが、空振りしてくれた時は嬉しかった。
即物的ではあるが、ダイエーでは優勝記念セールがあるのだろう。西武が優勝するよりダイエーが優勝するほうが、仙台では大きい。明日にでも出かけなければ。
卒業
時間があれば見ているテレビ番組、ニュース23。この番組のスポーツコーナーを担当している進藤アナウンサーが今日で卒業し、新しいアナウンサーがくるという。個人的には草野さんと進藤さん、そして高校の先輩である佐古キャスターのメンバーは好きだったのだが、そろそろ代わる頃なのかもしれない。
ところで、番組を降りる時には「卒業」という言葉を使うようだ。番組を学校になぞらえているのかもしれないが、一応辞書で意味を調べてみた。「学校の全ての過程を終える事」、そして「一定の段階を終える事」とある。
辞書には書かれていなかったが、卒業という言葉の中には、「段階を終える」だけでなく「成長して次に繋がる」という意味も含まれているように思う。進藤さんも夕方の番組に移って、より一層活躍するということだろう。さらに言えば「子供を卒業」とは言っても「人生を卒業」とは言わないと思う。
人間は成長するたびに卒業して行くのさ、とうそぶく僕は、まだまだ子供を卒業していない気がする。何度卒業すれば一人前なのだろう。学校は簡単に卒業できるというのに、他の卒業が難しい。
人の振り見て
小さい頃に先生から言われる事は、くだらない事のようで、実は重要だったりする。例えば、小学校の頃の標語で「あいさつをしよう」というのをよく見かけた。小さい頃は「何をちいさいことを」とか思っていたが、今はその意味を理解出来る。
中学も高学年になると、先生から「大人になると叱ってもくれなくなるんだよ」と言われた事があった。ふーん、としかその時は受け止めなかったが、だんだんに大人に扱われるようになると、その厳しさというのを感じる。よっぽどでないと口を出さないし、出されない。叱られるのが嫌な小学生から考えると、夢のようではあるが、けしてそうでないのは誰もが知るところだ。
大人になってからは「人の振り」を見て勉強するしかない。でも、周りの人の振りが問題ない時はどうすれば良いのだ?会社の職場というのはどういったものかは知らないが、周りは問題なく、だから余計に何も言ってくれない気がする。大学にいるうちに最低限の礼儀を身につけておきたいと思う。のだが、、
まあとにかく、子供の頃のしつけは大切だということでしょう。身を美しくしておかないと、だめですね。
どこをどれだけ
僕はよく手を抜きたがる。あれも後でこれも後で、やらなくちゃなあと思いつつも最後の最後まで残しておく事が多い。おかげで部屋の中は目も当てられない。
もちろん、手を抜く事は悪い事でないだろう。必要な事に集中するのも必要だから。しかし、いつもいつも手を抜いてはいけない事も確かだ。手を抜きすぎて病気になる人もいるらしい。重要なのは「どこ」を「どれだけ」という事になると思う。どうやって判断するべきなのか。
人に迷惑をかけない、人道に反しない、などなど色々言う事が出来るのかもしれないが、明確な線をひく事が出来ない。経験を積むしかないだろう。やはり、「まだ分からない」。
大学では(良い意味で)いかに計算の手を抜くか、という事も勉強する。無駄な計算をせず、本質を捉えようという事だ。いかに手を抜くかという事は、今でも研究のテーマ(の根底)にある。
なんにせよ、良い手の抜き方は永遠のテーマだろう。そんな事を、台湾の手抜きマンションのニュースを見て考えた。