1999年10月4週分
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1999/10/28 [木]

自分の目

どんなことでも、自分の目で見たい。そう思う人はたくさんいるだろう。僕も一度でいいので、蜃気楼とオーロラを見てみたい。地球を宇宙からも見てみたいのだが、これは叶わぬ夢であろうとあきらめている。テレビではなく、自分の目で見てみたい。そして、自分の目で見ることができたら、自分以外の人を本当に信じることができる気がする。

自分の目で見ることができたら、そのことに関して感動できるのではないか、とも思っている。平らな画面に映し出された映像ではなく、実際のものを見れば、かならずや感動させてくれるに違いない。少なくとも、感動することができる心を持っていると、信じたい。

しかし、本を読んでいる時にふと、本当に感動することができるのだろうか、と不安になることがある。本を読んでいて感動を覚えるときがあるが、それは他人が感じたことを、言葉に翻訳して伝えてくれるからだ。あくまで、他の人の感動で、自分の感動ではない。そして、自分の感性というのは、今までの経験から、貧弱のように思われる。

自分の感性というものがしっかりと磨かれていないと、オーロラなどを実際に見ても、大した感動もないまま終わってしまう気がする。いかにして感性を磨くのか、それが一番重要だ。そのためにすることは、思索を巡らせることだけなのだろうか。何事についても、自分の目で見ることができる自信がつくまでには、まだまだ時間がかかりそうだ。


1999/10/26 [火]

旅行

最近は不況なので、どうなのかは分からないが、会社によっては慰安旅行を毎年行うところがあるらしい。この慰安旅行、本来は社員の労をねぎらうために行われるのだろうが、本当に休まるのだろうか。上司が一緒について来ることで、絶対に休めない思う。逆に、安らぎの時間であろう夜でさえも、上司と顔を合わせていなくてはいけないのは苦痛だろう。

我々の研究室では、明日から鳴子温泉の近くで合宿だ。研究室で行くからには、遊びではなく、勉強会だ。準備こそ大変ではない。しかし、行ってからやる内容は、なかなかハードのようだ。6時間くらいは勉強をしていることになりそうな気配がする。お酒の好きな人は、その後にお楽しみが待っているのだが、あまり好きではない俺としては、拷問に近い。その場を逃げ出し、すんだ夜空を見ながら、散策でもしてみようかと思っている。

近くにある温泉を、せめてものお楽しみにしておきたい。ただし、車を出してくれる先輩の気分によっては、これもおじゃんになってしまう。できるなら、最近買ったバイクで行ってみたいのだが、そういうわけにはいかないらしい。残念なことだ。


1999/10/25 [月]

シングルマザーの子

近年、ペットもどきがはやっている気がする。アイボなど動物もどきにはじまり、パソコンやテレビゲーム上のペットなどだ。本当のペットほどに手間のかからない、お手軽なところが受けているのだろうか。本当の動物も、どうやら人気があるらしい。芸能人が小さい犬を飼っている、なんていうことまでワイドショーでやっている。どうでもよいではないか、と思うのだが。

ペットを欲しがるのと関連があると思うのだが、最近になって認められ始めた「女性の自由」の一つに、選んでシングルマザーとなる事がある。これが、非常に気になる。

先日のNHKスペシャル「世紀を越えて」で取り上げられていたのだが、最新の技術等によって、夫はいらないが子供が欲しい、という女性の希望を叶えられるという。女性の自立を助けることができてすばらしい、と言えるかもしれない。しかし僕はむしろ、子供がペットのようになっている、と感じた。もちろん、犬や猫とは全く違った感情だとは思う。しかし、やはり本来ある姿ではないという意味で、ペットと同じだ。

このような技術で、おそらく女性の幸せは確保されただろう。しかし、子供の幸せというのはどうなるのだろうか?片親しかいないのは、やはり幸せだとは思えない。親の都合で生かされたり殺されたりする将来の子供は、はっきり言って不幸だ。


1999/10/24 [日]

北村薫

大学生になっているにも関わらず、本というのをほとんど読んでいない。大学生にもなって、とは思うのだが、もっぱら漫画だ。しかし最近、院試のストレスと、あるメーリングリストの影響で、北村薫の小説を読むようになった。

「スキップ」という小説が、この作家との出会いだった。設定もさることながら、主人公がとても魅力がある。詳しくは書かないが、現実世界でもこのような人に出会いたかった、と思う。そうすれば、高校時代も変わっていたかもしれない。

「スキップ」は推理小説ではないのだが、北村薫作品の大半は推理小説だ。推理小説と言っても、謎ばかりに重点が置かれているのではなく、その周りの人間模様などを描いている。その点が、僕をファンにさせた要因だ。人が無惨に死なないのも、好感を持つ。

書評は、いろいろなページにあるので、そちらに譲ることにする。最近本を読んでいないな、と思う方には、「スキップ」をぜひどうぞ。新潮文庫から出ている。


参考ページ

1999/10/22 [金]

思考の道具

また、研究室の教授の話から「ネタ」をいただく。以前教授は「思考するときは、言葉を使う」と言っていた。そこで、ふと考えた。果たして本当だろうか。読んでいるみなさんも、ちょっとだけ考えてみませんか?

思考というのは、本当に、日本語が母国語の人は日本語を、英語が母国語の人は英語を使うものなのだろうか。僕は、確かに、作文を書いたり、質問をしようとするときは、日本語でものを考える。日記を書いているときも、頭の中では日本語が踊っている。

問題なのは、それのみが論理的な思考かどうかだ。僕は、それだけでないと思う。工学部では、式の計算をすることもあるのだが、そのとき日本語は出てこない。ぼーっと式を眺めて、はっと気がつくと、答えを得ることができる。つまり、「なんだろう、と考え込んでいるときも、頭は真っ白」ということがある。

僕は仮説として、「人間は、口から出てくる言語とは違う、頭の中だけの言語を持っている」と考えている。頭の中の言語は、文字だけではなくイメージも含んでいる複合的なものだ。人と話すときは、その頭の中の言語を、日本語や英語に翻訳しているにすぎない。考えるとは、そのイメージを重ね合わせることを指している。思考の結果として、イメージの全体的な模様を見ることができるのではないだろうか。

イメージが大切と、あちこちでよく聞く。さて、みなさんはどのように考えるでしょうか?


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本草 芥子。 kenstarmx1.freemail.ne.jp